万次郎の偉業と人柄に触れる資料館 ✽ ジョン万次郎資料館/土佐清水市
- 読売ライフ
- 2024/12/16中四国情報
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万次郎の偉業と人柄に触れる資料館
ジョン万次郎資料館/土佐清水市
ジョン万次郎資料館
江戸時代の終わりごろ、14歳の時に海で遭難したことからアメリカに行き着き、その後アメリカの様々な文化を日本に伝えて近代日本の発展に大きな影響を与えたジョン万次郎。
英会話テキストや「ABCの歌」、ミシン、写真機など今では身近になったものを「ジョン万次郎資料館」で探してみた。
◆ 三つのゾーンに数々の資料
同館は2006年、足摺岬地区から養老地区の「海の駅あしずり」構内に移転オープンした。館内では少年期から壮年期まで、三つのゾーンに、万次郎に関する数々の資料を展示している。
その中で日本の近代化に寄与した代表的なものの一つが、日本初の英会話テキスト「英米対話捷径(しょうけい)」だ。1853年にアメリカのペリー提督率いる黒船が来航。翌年、日米和親条約が締結され鎖国が解かれた後、世の中ではたちまち英語が必要になり、渡米経験のあった万次郎が日本の将来を担う若者に英語を教えるために作成した。アルファベットの紹介から、「アイ キャノータ セイ ザャタ エービーシー( I cannot say that a abc )」と当時のアメリカ人の発音をカタカナで表現した「ABCの歌」も掲載されており、歌うことが好きだったという万次郎の工夫が感じられる。また、同館には万次郎が帰国後、土佐で記したアルファベットの掛け軸(レプリカ)も展示されている。
館内に展示されるABCの掛け軸(レプリカ)
◆ 母のためにミシンを日本へ
万次郎は60年に幕府の軍艦「咸臨丸」で、勝海舟や福沢諭吉とともに再びアメリカへ渡り、その土産として日本に初めてミシンを持ち込んだ。資料館には同時代のミシンが展示されている。アメリカでもミシンは当時、超高級品だったが万次郎は夜なべで縫い物をする母のためにミシンを買って帰ったという。ミシンの伝来は、万次郎の母への思いがきっかけだった。
館内に展示される当時のミシン。万次郎が持ち帰ったものとは別メーカーのもの
写真機はすでに長崎の出島を介して伝来していたが、江戸(東京)に持ち込んだのは万次郎が初めてだったため、東京の万次郎の自宅前は写真を撮ってもらいたいと、多くの人が訪ねてきたという。ちなみに万次郎が最初に撮影したのは、妻の鉄といわれている。
資料館の中平彩さんは「展示を通して、どんなピンチに見舞われてもあきらめず、歌が好きで明るく陽気だった万次郎のことを知ってほしい」と話す。(エリアライター/黒田仁朗)
土佐清水市中浜に復元されたジョン万次郎の生家
ジョン万次郎(中濱万次郎)とは
1827〜98年。14歳で漁に出て遭難し、伊豆諸島の無人島の鳥島に漂着。過酷な143日間を過ごし、アメリカの捕鯨船に救助された。船長の養子となり教育を受け、船員として働き、その後カリフォルニアの金鉱で得た資金で帰国を果たした。帰国後は教育者、通訳として幕末、明治に活躍する人材を育成。生涯、航海した航路は地球2周半にも及ぶ。波乱万丈に満ちた人生を歩み、近代日本の父といわれる。
ジョン万次郎資料館
土佐清水市養老303
◆ 入館料:大人 440円
小中学生 220円
◆ 開館時間:8時30分 〜 17時(最終入館 16時30分) 無休
☎︎ 0880・82・3155